軽便鉄道 その1
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軽便鉄道は、自動車が未発達の時代に幹線鉄道(国鉄など)から離れている集落や歓光地などを幹線鉄道駅へ結ぶために、地元の有力者たちが中心になって会社を設立して建設した鉄軌道路線です。
しかしながら、輸送需要は多くは見込めないので建設費を節減するために規模を縮小し、軌間も幹線鉄道より狭いものを採用しました。国鉄などの軌間は1067mm、これに対し軽便鉄道では762mmが多く採用されていました。
したがって、ここでは軌間762mmのいくつかの軽便鉄道の風景をお目にかけることにしましょう。
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新軽井沢駅構内 (1958年 草軽電鉄)
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草軽電鉄(以降、草軽と略します)は国鉄の軽井沢駅と草津温泉を結ぶ55.5qの軽便鉄道線です。
この鉄道の駅は国鉄の駅と国道を挟んだ向い側に本社の建屋と共にありました。
開業は軽井沢方から汽車により順次進められ、全線開業は1926年でこの時期には既に電化が完了していました。草軽の電気機関車は工事用の電気車を改造したもので横から見るとアルファベットのL字の形をしていたことからL形電機と呼ばれていました。
写真の左端の車両が今度発車する下りの草津温泉ゆきの列車です。
なお、草津温泉までの所要時間は約3.5時間でした。
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林間を行く (1958年 草軽電鉄)
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草軽は軽井沢の別荘地帯を抜けると浅間山の麓の丘陵地を走りますが、トンネルは造らず、橋梁も最小限にとどめ地形に忠実に沿って線路が敷設されていました。
列車は通常は客車1両で時折これに貨車が1両付くこともありました。夏の混雑時には客車2両の列車もありました。 草軽の列車は、我が国最初のカラー映画で高峰秀子主演の「カルメン故郷に帰る」など幾つもの映画に登場しました。
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スイッチバックを下る (1958年 草軽電鉄)
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当時、我が国の鉄道の標高最高駅は国鉄小海線の野辺山駅より少し高いと言われた草軽の国境平駅でした。草津方面への列車はこの駅を越え、次の二度上駅に着く直前にスイッチバックを下ります。
写真はスイッチバックを下る貨物列車で、ポイントの切換えは列車の乗務員が行っていました。
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のどかな車内 (1958年 草軽電鉄)
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草軽の客車は小さいながらも40人分の座席がありました。その車内の風景です。 いろいろな世代のお客が乗り合わせていましたが、都会の列車にはないのどかな雰囲気が感じられます。前方の窓からはL型電機の姿が薄っすら眺められます。 |
硫黄の積込み (1958年 草軽電鉄)
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沿線で産出する硫黄の運搬も草軽の役目の一つでした。写真は草津前口駅での貨車への積込み風景で、構内で遊んでいた男の子も今ではお孫さんの居る歳になっていることでしょう。
硫黄は軽井沢に運ばれ国鉄の貨車に積替えられていました。
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パンタグラフの調整 (1961年 草軽電鉄)
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乗務員がL型電機のパンタグラフの具合をみているところです。
この時期、ここ上州三原駅は草軽の最後の営業区間として残っていた草津温泉方面への始発駅でした。
翌年の春にさよなら運行を行い草軽は全線が廃止となりました。
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発車待ちの列車 (1968年 頚城鉄道)
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頚城(くびき)鉄道は信越本線の黒井駅から内陸の町、浦川原を結ぶ15kmの鉄道で1916年に全線が開通し汽車が運行されました。 写真はこの鉄道の始発駅新黒井で発車待ちの列車です。先頭は木造客車を改造したディーゼルカー(ホジと呼ばれていました)で後ろに木造客車を連結しています。 クラッシックな駅舎は創業時からの建物らしく大きな看板と共にこの鉄道のシンボルの一つでした。 |
近ずく列車 (1968年 頚城鉄道)
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広い田んぼを通り抜けホジが小さな木造客車を牽いて百間町駅に進入して来るところです。駅の構内には車庫などもあり、この鉄道の基地のような処でした。 |
田園を行く (1968年 頚城鉄道)
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この鉄道には沿線の農産物を運ぶ役目もあり、写真のようにディーゼル機関車に牽かれた貨客混合列車も運行されていました。この列車ものんびりと田園の中を走り過ぎて行きました。 |
列車到着 (1968年 頚城鉄道)
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途中駅の飯室に到着した浦川原ゆきの貨客混合列車です。後方の客車から数人のお客が乗り降りしました。 駅舎はご覧のように比較的新しいようでした、また腕木式の信号機も新しく建て直されたようです。 この鉄道も自動車には勝てずに1971年に全線が廃止になりました。
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次回も軽便鉄道の風景をお目にかけることにしましょう。 |